さらなる省エネ・省CO2が住宅の重要なテーマとなる寒冷地。 本企画は、独自の視点から住宅性能研究の最前線を開いている、東京大学の気鋭の研究者・前真之准教授に、「いごこちの科学」をテーマに、住まいの快適性能について解き明かしていただきます。 シーズン1に続く第2弾として2015年からは、それまでの連載の発展形「いごこちの科学 NEXT ハウス」としてリニューアル。
「北海道・寒冷地の住宅実例から考える室内環境について」をテーマに、断熱、開口部、蓄熱など、さまざまな視点から寒冷地における室内環境の改善ポイントを解説しています。
建築学専攻・准教授
前 真之 (まえ・まさゆき)
2016年の4月から電力の小売りが完全自由化されました。どの家でも、自分の好きな電力会社から電気を買うことができるようになったのです。これは戦後の電力政策の抜本的な変革です。今回はこの電気について戦後の歴史を振り返りつつ、今後のことを考えてみることにしましょう。
10の地域電力会社は1951年に生まれた
日本には地域ごとで独占的に電気を発電・送電してきた「旧一般電気事業者」が10社あります。東京電力や北海道電力などが該当します。こうした地域独占の一般電気事業者が10社登場したのは、戦後間もない1951年までさかのぼります。
戦前、電力は基本的にすべて民営会社によって発電・送電されていました。それが戦時の国策として全国すべての電気を管理する「日本発送電」に徴発されました。戦争中に国内の電力施設は大きなダメージを受け、供給能力は大幅に低下しました。そのため戦後の復興における電力需要の急増に対応できず、突然の停電が頻発し人々の生活を不安定にしていたのです。
こうした状況を鑑み、地域ごとの実情に合わせて積極的に電力供給を増大させていくことを目的に、1951年に日本発送電が解体され、地域ごとに全国9社の一般電気事業者が登場しました。その後の沖縄の本土復帰による沖縄電力を加え、その数は10に増えました。
この日本発送電解体に尽力したのが、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門です。戦前は民営会社だった東邦電力の社長として名をはせた松永は戦時の国策に反発し、民間主導を強く主張しました。当時の経済界では日本発送電を存続させる案が主流だったのですが、松永は進駐軍に働きかけ、電力事業の完全民営化に成功しました。
1960年代、電灯需要は照明から家電へ
図1に、電力が民営化された1951年以降の、電灯電気の需要推移を示しました。「電灯」契約とは主に住宅で消費される電気で、工場等で使われる「電力」契約とは区別されます。
1951年の電灯需要は60.6億kWh(キロワット時)です。1950年代はまだ復興途上で生活水準も低く抑えられていたため、電灯需要の伸びは小さかったようです。当時は「電灯」契約の名のとおり、本当にもっぱら照明にだけ慎ましく電気を使っていたのでしょう。
1950年後半になってくると、復興が進み経済も成長しはじめます。人々もより快適で便利な生活を求め、洗濯機・冷蔵庫・白黒テレビといった「家電三種の神器」が急速に普及し始めます。こうした「家電」の登場と普及に伴い、1960年から1970年の高度成長期、電灯需要は133.8億kWhから517.1億kWhと、実に約4倍に急増します。まさに高度経済成長時代の到来です。電気は電灯にとどまらず、家電という文明の利器を支える最も便利なエネルギーになったのです。
電気が冷房・暖房・給湯も全ての用途をカバーする時代へ
1960年代半ばからは、さらにカラーテレビ・クーラー・カー(自動車)の「3C」が新しい三種の神器として登場しました。こうして電気は新たに「冷房」を賄うようになります。
1970年代には数度のオイルショックによるエネルギー危機を経験しましたが、1970年の517.1億kWhから1980年の1052.7億kWhへと、電力需要は堅調に増加し続けました。1990年ごろにはバブル景気が発生し、生活水準の向上がことのほか主張されました。電灯需要も1990年には1774.2億kWh、2000年には2545.9億kWhにまで増大したのです。
2000年以降は、オール電化住宅が普及しました。クーラーが進化し「暖房」までできるようになったエアコンの性能が向上し、そして従来の電気ヒーターに代わりヒートポンプ高効率に「給湯」するエコキュートが2001年に登場したことが、大きなターニングポイントとなりました。
これにIHクッキングヒーターが加わり、「調理」までも電化されました。ついに、家庭のすべての需要が電気で賄える時代が到来したのです。
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